第2章 漢王朝の光と影
漢王朝は天下に比類無き巨大帝国へと成長し、全国各地に統治の網を張りめぐらせた。
しかし2世紀末になると王朝内部の政争が表面化し、皇帝は求心力を失っていった。
地方では原始道鏡の教団が台頭して新時代の幕開けを喧伝する黄巾の乱が起こり、漢の都では董卓が横暴のかぎりを尽くすなど、社会全体が混迷を深めていった。
2-1 漢王朝の栄華
前206年に成立した漢王朝は、はじめ長安に都をおき、25年に洛陽へと遷都し、前後400年にわたって天下に平和と繁栄をもたらした。
漢時代には先祖を手厚く葬る事が美徳とされ、豪族は地下に大きな墓を築き、墓壁を装飾し多くの財宝を供えた。
豪華な墓を築くことは厚葬と呼ばれた。一部の識者は厚葬を否定し、墓を質素なものとする薄葬を主張したが、主流にはならなかった。
漢時代の豪華な墓とその副葬品は、漢王朝の栄華の様を今日に伝える。
017 獅子
「洛陽で造られた獅子」の銘文がある。
漢時代には西域からときおり「獅子」が献上された。
実際にライオンをみた工匠がつくったのかもしれない。
とても立派。存在感ありました。
デパートの前にあってもおかしくないです。





「洛陽で造られた獅子」の銘文と書かれている
018 獣形飾(じゅうけいしょく)
王朝の交代や度重なる戦乱を越えて、一貫した思想なり美意識が存在したことを示す。






019 觿(けい)
一端が尖り、幅広い端に孔があってここに紐を通して衣服にぶら下げた。
口を大きく開けたやや大ぶりの龍1頭と小ぶりの龍2頭を表す。

020 帯金具(おびかなぐ)
後漢時代から三国時代そして西晋時代にかけて流行した意匠。
持ち主は中山劉暢(ちゅうざんりゅうちょう)と推定される。

021 騎象俑(きぞうよう)
墓に納めるために作られた本作は白象に乗る仙人を表していて後者の意味合いが強い。
上と比べると素朴な作品。
仙人は象と一体化してます。

2-2 黄巾の乱と董卓
184年、原始道教の太平道は、政争や凶作にあえぐ民衆の心を捉え「蒼天すでに死す、黄天まさにたつべし」を合い言葉に立ち上がった。
黄巾の乱である。一方、太平道とよく似た教義の五斗米道(ごとべいどう)も徐々に勢力を拡大した。
後漢王朝はこれらの鎮圧を目論み各地の武将を頼みとしたが、このことがかえって群雄割拠と王朝の弱体化を加速させた。
なかでも隴西(ろうせい)出身の董卓は、拠点としていた扶風(ふふう)から後漢の首都の洛陽に入り、権力を誇示した。
董卓は洛陽を焼き払い、後漢王朝の命脈もここに尽きようとしていた。

寒冷化、人口減少。社会不安が増す中、道教教団があらわれた
022 「倉天(そうてん)」磚(せん)
左の行の中程に「倉天乃」とあり次に「死」と読める文字がある。
黄巾の乱のスローガンである「蒼天は死に、黄天が立とうとしている」とよく似ており注目される。


拓本
023 「黄神北斗(こうしんほくと)」鎮墓瓶(ちんぼへい)
「如律令」は当時の公文書の決まり文句。
神霊の力を国家権力になぞらえた初期道教の一面を伝える資料である。


024 「天帝使者」印
後漢時代に流行した太平道などの原始道教教団が、役所の公印をまねた印章を使っていたことがわかる。



0025 三段式神仙鏡
文様は三段に分かれ、それぞれに神、仙人、龍などを表す。
215年に曹操に降伏した五斗米道という宗教集団と関係が深い遺物と考えられる。

026 酒樽(しょそん)
「儀仗俑」(No.72)と同じ張将軍の墓で出土。
後漢末期の戦乱時にこれほどの優品を副葬できた涼州軍閥の力の大きさを示す。




0027 儀仗俑(ぎじょうよう)
後漢末期の朝政を一時専断した董卓も涼州出身の軍閥で、張将軍が董卓の武将だった可能性もある。
圧巻!です。ただし人が多く撮影には苦労します。
前から撮影すると比較的、楽に撮影が可能です。

前方上から

斜め上から

前方したから。馬の表情が良いですね


少しピンボケしてしまいましたが目は宝石か何かが埋め込まれています



こちらの目は加工がありません

都を焼き払う董卓。後漢王朝は混乱をきわめた
0028 熹平石経(きへいせきけい) 「董卓の焼き討ちで損壊」
惜しむらくは、ほどなく董卓の乱にによって大半が壊されてしまった。


2-3 涿県ー劉備旅立ちのまち
劉備は後漢時代の涿郡(たくぐん)涿県(現在の河北省保定市涿州市)で生まれ育ち、ここで関羽・張飛と会った。
桃園での義兄弟の契りを結んだという話は「三国志演義」の創作であるが、似たようなことは実際にあったかも知れない。
涿州市は北京しないから高速道路で2時間ほどで着く。市内には劉備、関羽、張飛の三人を祀る三義廟が残っている。
本姓津では涿州市で近年発掘された後漢時代の出土品を紹介するが、このなかには劉備らが当時実際にみたことがある品もある可能性は否定できない。


029 鋤(すき) 「鉄は力なり」
前漢までは国家などで管理されていた鉄製の農耕具は、後漢において幅広く流通し、各地の有力者が台頭するきっかけをつくった。
残念ながら、だいぶ錆びてしまっています。

030 犂(からすき)
荒れた土地を耕して税収を増やす、曹操が実施した屯田制にも用いられたであろう。


031 銅製食器
案、盤、耳杯、碗、箸
英雄たちの食卓銅製食器は墓に納めるために作った非実用品であるが、当時の食事の様子がわかる。
古代の中国では酒の杯やおかず、調味料の小鉢として広くもちいられた。
三国志の登場人物もこれで左傾を飲んでいたはずである。
三国志の時代の食事の風景は、案外と少し前までの日本と近かったようだ。
下のお盆が「案」



032 鏡台
方形台座の上に柱を立てて、柱の中程に設けたU字型の枠の上に鏡をのせている。
三国志の登場人物もこのような鏡台を用いたことであろう。

032 多層灯
4つの部品を積み重ねており各段に人や動物、樹木などを表した薄板の象が付けられている。
漢時代には墓に灯りを副葬することがあるが、本作は特に複雑で華麗である。


034 網代文陶棺(あみじろもんとうかん) 「質素な棺」
長側面に網代(薄板の帯を編んで作った敷物)の圧痕がある。
墓の規模からすると中流階層と思われるが、通常の木棺ではなく粗末な陶棺を用いたのは薄葬の思想の表れかもしれない。

2-4 献帝 後漢のラストエンペラー
後漢の霊帝(在位168~189)の死後、その子の劉協(181~234)が董卓に擁立されて9歳で即位し、程なく洛陽から長安に居を移した。
これが後漢最後の皇帝・献帝である。
董卓暗殺の後、献帝は曹操の庇護下に入り、許(現在の河南省許昌市)を都した。しかし実権はなく、曹操の権力を正当化する道具でしかなかった。
220年に曹操が死去すると、同年その子の曹丕に迫られ皇帝の位を譲り、漢王朝は滅亡した。
退位ののち劉協は魏の貴族として山陽(河南省焦作市)で余生を過ごした。

魏の文帝、後漢のラストエンペラーを厚遇
035 五層穀倉楼(ごそうこくそうろう)
出土した河南省焦作市は、後漢最後の皇帝・献帝が、220年に魏の文帝・曹丕に譲位した後、余生を送った土地。
晩年の献帝もこのような渡り廊下付の穀倉を目にしたのだろうか。
屋根に鳥、庭には犬が置かれている。


036 四層穀倉楼
出土した河南省焦作市は、後漢最後の皇帝・献帝が、220年に魏の文帝・曹丕に譲位した後、余生を送った土地。
晩年の献帝もこのような渡り廊下付の穀倉を目にしたのだろうか。
五層穀倉楼と異なり色彩がきれいに残っている。
庭には、犬に加え鶏や働く人々も加えられている。



037 三層穀倉楼
焦作の豪族たちは、模型とは言え穀倉にこだわり大小や形状を競い合った。
献帝が余生を送った焦作は豊かな穀倉地帯だったものと考えられる。
こちらもきれいですね。
三連のサイロなど現在でもこのような建物がありそうな気がします。


038 邸宅
後漢時代の豪族が暮らした邸宅の一部を写した模型で砦のように堅固。
豪族たちは蓄えた穀物を経済的な基盤として私兵を雇い軍事力も備えていった。

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